清水のブログ

「いち」大学生の日々

カテゴライズ/等身大

カテゴライズ

この前の記事で、「自己愛性パーソナリティ障害」について書きました。www.shimizu-blog.com

 いや、「について」と言えるほど詳しく考察したわけではないですが。

そして、↑記事でも書いたように「自分はこの障害!」と言ってるわけではないです。

人間の性格の「幅」が一定より広いとき、「障害」と定義されるのだと解釈しています。

なぜ定義したのか考えると、「分かりやすくするため」で、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

人間は何かとランクをつけたり区別をします。

それが「分かりやすくするため」の他に意味を持つと、差別になるのだと思います。

以前、「自己愛性パーソナリティ障害」について調べて「当てはまるなぁ」と思ったとき、なんとなく楽になった気がしました。

それも、自分についていくらか分かりやすく捉える方法を見つけられたからだと思います。

誤解する人がいるので何度も書きますが、「自分はこういう症状なんだ。だから~」というわけでなく、「調べたら、こんなこともあると知った。知識を得たことで捉えやすくなった気がする」というだけです。

等身大

↑の記事内にもありますが、このWikiに、

ja.wikipedia.org

「無能な自己と過度に万能な自己が振動して、等身大の自分がない」的な記述があって、わかる~って思いました。

↑の記事を書いたのは2/17。軽音サークルでのライブを終えた翌日です。(記録できるのは日記のいいところ)

この記事を書いてからというもの、何かにつけて「等身大の自分」について考えていました。

2/17の記事では

「等身大の自分、、、

「自分、すごいやん!」が行き過ぎると「過大な万能感」になってしまうのでしょうか。

「自分、それでもええんやで。」と認めることが「等身大の自分」なのでしょうか。

そう考えると、「自分を褒める=自分を大切にする」とも限らない気がしてきました。」

と書いていました。

この考えは今も変わりません。

ここ最近、「自分、それでもええんやで。」って言えるラインを考えています。

 

 このライブの時、自分の出番は最後から3番目でした。

www.shimizu-blog.com

それまでの間、なんか泣いてました。

他の人の演奏を聴いていたら「自分なんて」という思いが止まらなくなりました。「無能な自己」でしょう。

 その翌日、スタジオ練習に遅刻してからも、「自分なんて」が止まりませんでした。(記事を読んだらわかると思います。)

www.shimizu-blog.com

 「自分は、同じバンドの人とさえコミュニケーションがまともに取れない人間なんだ」と思いました。

落胆するのは、現実以上に想定された有能な自分との落差によるものでしょう。

ならば「等身大の自分」を見つけるには、「コミュニケーションを取れない。それが自分なんだ」と思うか、想定された自分に近づくか、なんでしょうか。

きっと「想定された自分に近づく」にしても、自分の場合は想定が高すぎる気がします。(過度に万能な自己(?))

 

なんて考えていました。

まとめると、「自分がやりたいことをして、その結果も『自分だなぁ』と思うこと」が「等身大の自分を見つける」ことと、今は考えています。

他人の意見とか、日々の怠惰とか、劣等感などによって簡単に乱されて、「自分だなぁ」と思えないのかなぁ。

 

読み返すと、「自分」って言葉が何回出てくるんだ。って感じますね。まあ、日記がそうなるのは仕方ない。

 

あと、読んでいて不快な思いを抱いた方がいたら、すみません。けっこうデリケートな話題なので。不快に思わせる意図は一切ありません。

 

おしまい