清水のブログ

「いち」大学生の日々

自分はいつか死ぬってことを考えてる

自分はいつか死ぬってことを、最近よく考えます。

なぜそんなことを考えはじめたかというと、おそらく、自分や友達の家族の死や、読んだ本や、コロナウィルスで人が死ぬ報道などに影響を受けたからです。

 

それに伴って、どんな風に生きるのかを考えています。

ただ長生きするのが理想ではないと思いました。

僕は(たぶん精神的に幼いので)、一人暮らしを始めるまでぼんやりと「自分は今は未熟だけど、この先うまくいく未来が来るのだろう」と思っていました。

嫌な過去は払拭されて、理想の人生を歩めるのだろう、と。

大きな流れがあって、それに従えばよい、といった感じです。

でも実際は流れなんてなくて、20歳になっても恥ずかしい過去がフラッシュバックして悶えたりします。

「恥ずかしい過去」ってのは、主に自分の意思に反した言動です。思ってもいない意地悪をしてしまったり、されたりです。

結局、過去はいつまでもついて回って、払拭なんてできないのでしょう。

 

そう思ったら、「なんとなく理想の未来が来る」っていう妄想は消えて、未来への不安が増しました。

だけど、今を大切に生きようと思い始めました。

昔、読みたかったけど読まなかった本をとりあえず読んでみて「いい本だった」とか「こんなもんか」とか思いたくなりました。

なんか、言葉にすると

「過去は変えられないけど未来は変えられる」「今動こう!」「やりたいことをやろう!」

みたいな、軽い感じになってしまうのですが、決してそういうニュアンスではないのです。

なんかそういう言葉って、妙な例え話を持ち出してきたりして、人を操ろうとしている雰囲気を感じてしまいます。お前に「生きる意味はこれです!」とか言われてもなぁって感じます。

そんなニュアンスではないのです。うまく書けないけど・・・。

 

ブログで毎日を記録しているから尚更そう思うのでしょう。

今日もまた、明日には払拭できない過去になるのだから、恥ずかしいことをしてらんない、といった具合です。

逆に「良い日だった」と思えれば、それは思い返してニヤニヤできる過去です。そう考えたら、毎日を過ごすのがいくらか楽しく思えました。

 

ただ、「あまり(自分にとって)恥ずかしいことはできない」と気を張り詰めて過ごすので、ずいぶん疲れます。(6月はじめの3日間はその疲れかもしれません)

www.shimizu-blog.com

 

 「大きな流れ」ってのを信じられたら楽かもしれないと思い始めました。

例えば宗教とか。(宗教にあまり詳しくないので不快に思う方がいたらすみません)

時々書いている「ロシア史の動画」で、ドフトエフスキーの話が出ました。

彼は、「人間は理性を以て生きるべき」という思想を持っていました。

それが当時のロシアに危険視され、死刑を宣告されましたが、死刑執行の直前に減刑され、シベリア流刑になりました。

彼は、自身が死に直面した経験や、シベリアでの人々の様子から人間の脆さを感じ、それからは理性ではなくキリスト教への信仰に傾きました。

僕は、この20年間であまり宗教に触れる機会はなく、理性を信じていたのですが、この話を聞いて、その価値観が揺らぎました。

科学的にどうってことばかり考えていたのですが、宗教で救われる人に目を向け始めました。

ドフトエフスキーの作品は、あらゆる「本を薦める本」で薦められていたので読んでみたいです。

 

最近はこんなことを考えています。読んでくれてありがとうございました。